01 12月 クリステル・ルロー Christelle Lheureux
クリステル・ルローは1972年生まれ。アミアン大学とパリ第8大学で造形芸術を学んだあと、グルノーブル美術学院に入学。その後、フランス国立現代アートスタジオ「ル・フレノワ」に在籍。
アーティストであり映像作家である彼女は、数々の国際展でビデオやインスタレーションを発表してきました。例えば、パリのグラン・パレやパレ・ド・トーキョー、ジュネーブ近現代美術館(MAMCO)、イタリアのリーヴォリ城現代美術館などのほか、日本の「ヒロシマアートドキュメント」にも出展しています。彼女の作品は、フランス国立造形芸術センター(CNAP)やポンピドゥーセンターなど、いくつかのコレクションにも収蔵されています。
クリステル・ルローは2003年6月から12年にかけてレジデントとしてヴィラ九条山に滞在。『L’Expérience préhistorique/先史的経験』と題されたそのプロジェクトは、溝口健二監督の初のトーキー作品『祇園の姉妹』のリメークです。この作品のファースト・バージョンでは、活動弁士・澤登翠の声が映画に重なり、無声映画時代のように俳優のセリフを語り、映像に解説を加えています。
『L’Expérience préhistorique』は 日本では2つのバージョンが作られました。その後、クリステル・ルローは、様々な作家に映像の解説とセリフを依頼し、同じ作品の別の解釈を制作しました。今では約12のバージョンが存在し、そのうちの8つは2007年にはポンピドゥーセンターで、2009年にはアヴィニオン演劇祭で紹介されました。
ヴィラ九条山滞在時、クリステル・ルローは同じ時期にレジデントだった建築家のフィリップ・ラムとのコラボレーションも行い、共同で『 Des après-midi différés/録画された午後』と題されたビデオインタレーションを制作しました。
インタビュー:クリステル・ルロー
2003年に京都を訪れた時、日本文化や特に日本映画についてどの程度知っていましたか? 「弁士」については既に知っていましたか?
日本に行ったことは一度もありませんでしたが、歴史に残る日本映画や同時代の映画(諏訪敦彦、河瀬直美、是枝裕和など)には注意していました。「弁士」についても知っており、無声映画からトーキーへの歴史的転換期に興味を抱いていました。プロジェクトは1930年代に京都で撮影された溝口健二の初のトーキー作品(『祇園の姉妹』)と私が発見することになる現代都市とを突き合わせたい気持ちから生まれました
このプロジェクトの準備に当たっては、来日前に、溝口の無声映画に詳しい弁士・澤登翠に連絡を取るとともに、どうにか一人でやっていけるよう日本語を習いました。これはとても役に立ち、私はバーや街頭で若い人たちのキャスティングを行ったり、少し行き当たりばったりに撮影場所を探したりすることができました。
溝口の映画を巡るプロジェクトをどのように構想し、『L’Expérience préhistorique/先史的経験』のために日本の無声映画のやり方に戻ることをどのように決めたのですか?
無声映画からトーキーへの転換期に強く惹かれていたのは、多くの場合、音と映像との関係には少し余計なところがあったからです。単に映像を見るだけでも、あるいは音を聞くだけでも、ストーリーを追うことはできました。『祇園の姉妹』は日本に来る前に初めて見ました。サウンドトラックを残すことを選び、同じ時間の新しい映像を作るために、京都の若者たちを使って新たな演出をしました。例えば、溝口の映画で2人の登場人物が話をしている時、画面では2人は見つめあっていました。場面のカットはサウンドトラックに忠実なので、既存の物語により構成される一種奇妙な映画の初歩的文法を発見しました。それは魅力的なものでした。1930年代のサウンドトラックとストーリーが、私が演出した若い登場人物たちに文字通り乗り移り、生命を吹き込み、彼らを互いに関係付けていました。この時期、私は東京にも行き、澤登翠に会い、彼女が古い日本映画に合わせて弁舌を振るうのを見ました。
撮影と編集を終えて、プロジェクトのバージョン 1.0 とでも呼べるものを手にしました。『祇園の姉妹』のサウンドトラックを用いた私の無声映画です。
次に、この映画をサウンドトラックなしで見ました。そこで発見したのは、無言で見つめあっていた登場人物は、物語もセリフもなしだと、状況を一変させてしまうことです。2人は宙に浮いたようで、お互いを結び付けることのできる物語を待っているようでした。このサイレント・バージョンを澤登翠に送り、元々の登場人物の名前は残したまま、まったく別の物語を考えてもらうことを依頼しました。あとは、彼女が自分の言葉と物語で登場人物に生命を吹き込み、新しい観点で対話をさせれば良いだけでした。
そこで、私たちは京都の関西日仏学館でパフォーマンスを行い、その時に、澤登翠の声を録音し、次にこの新しいサウンドトラックを映像に貼り付け、このバージョン 1.1.の痕跡を残すことにしました。
プロジェクトはこれで終わりだと思っていたのですが、フランスに戻るや否や、新しいバージョンを作ることを提案されました。そこで、フランス人作家のクリストフ・フェを選んだのですが、彼は登場人物の名前は変えずに、まったく別のストーリーを紡ぎ出しました。このようにして、このプロジェクト『L’Expérience préhistorique』は、パフォーマンスとしてと同時にマルチスクリーンのビデオインスタレーションとして展開される一種のスペクタクル史劇になりました。初めはそんなことは考えてもいなかったのですが、実のところ、もっとも面白かったのは、常に同じフィルムに次々と異なった物語を重ね、ストーリー同士を比較することでした。私は12ほどのバージョンを、同じ数だけの国で、文学、戯曲、テレビシリーズなどの作家と協力して作り、言語・文化や映像解釈の違いを楽しみました。2009年のアヴィニョン演劇祭やポンピドゥーセンターでの複数バージョンの上映のあと、このプロジェクトを少しほったらかしにしていました。でも、最近、ブリュッセルで新しいバージョンを作ることを提案されました。
ヴィラ九条山滞在中はフィリップ・ラムをはじめとし、日仏のアーティストとのコラボレーションをされました。こうした出会いはどのようにして起こり、こうした交流からどこに向かうことになりましたか?
フィリップ・ラムのことは、ヴィラで部屋が隣同士になるまで、ほとんど知りませんでした。私たちは、レジデンス中に京都で開催された展覧会のために、『Des après-midi différés /録画された午後』と題されたプロジェクトを企画しました。これは、京都のビデオライブラリーで見つけることのできたフランス映画に映っている光と空をフィルムに収め直すというものでした。考えたのは、フランス映画の背景と日本映画の背景における時間と光のずれにこだわることでした。数時間に及ぶフィルムを作りましたが、それは選ばれた映画における午後から夜に到るまでの光線で再構成された時間性以外には、何の叙述もないものでした。用いられたフランス映画の光は数年前から数十年前に遡るものであったため、時差ボケの潜在的体験のようなフィルムになりました。
2005年には、パリのスイス文化センターでのフィリップの個展のために、この原理を改めて採用し、1955年にパリで初めてカラーで撮影された5本の映画に出てくる空の映像をフィルムに収めました。
ヴィラ九条山での滞在のおかげて私たちは息の長い友人関係を結ぶことができました。パフォーミングアーツの舞台美術家であるナディア・ローロとも同様です。彼女と出会ったおかげで、その数年後、ナディアがよく一緒に仕事をしていた振付家ヴェラ・マンテロの仕事に関する実験的ドキュメンタリーをポルトガルで撮影するという考えが生まれました。そして、ポンピドゥーセンターで行われた上演の収録が行なわれました。
私は様々なレジデンス中にいつも大きな出会いをしてきましたが、『L’Expérience préhistorique』のおかげで日本の人たちと数々の出会いができたこととはまた別に、もっとも有意義だったのは多様な芸術分野の人たちと経験の交流と共有ができたことです。
現在は、日本とどんなつながりを保っていますか?
2005年にある展覧会の機会に再び日本を訪れました。その時、『L’Expérience préhistorique 』の出演俳優の1人と映画を撮りました。それ以来、また日本に行ける日を待ち焦がれています。ヴィラ九条山でのレジデンスは、個人的にも、芸術的にも、文化的にも、私に強い影響を与えました。現代の日本映画は熱心にフォローし続けています。