17 3月 セミナー 知を創造するとき Séminaire – La construction de nouveaux savoirs

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プログラム
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14:00 開会の挨拶:佐治 英郎(京都大学 研究担当理事補・学術研究支援室長)

14:20 円卓会議:「コレクティヴ・インテリジェンス 知を創造するとき」
オリヴィエ・フィリポノー、ラファエル・アンジャリ、ラファエル・ライン、アンジェラ・デタニコ(ヴィラ九条山)、伊勢 武史、ティラニー・テイシャシーヴィチエン、小林 広英(京都大学)
進行:臺丸 謙 (パリ社会科学高等研究院)

17:00 アーティストトーク: ジャン・ロー

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10:30 開会の挨拶:ピエール・コリオ(アンスティチュ・フランセ日本 代表)

11:00 清水 展 (京都大学)
グローカルな芸術家による近代批判:極私的キッドラット・タヒミック論

11:45 コリーヌ・ル・ヌンとドナシャン・オーベル (パリ・セルジー国立高等美術学学校)
芸術と学術の対話を打ち立てる

12:30 議論

13:00 昼食

14:00 杉村 靖彦 (京都大学)
哲学の〈ローカライズ〉 京都学派の哲学をめぐって

14:45 八木隆裕(開花堂)と中川周士(中川木工芸)
工芸と職人における暗黙知

15:30 議論

16:00 アーティストトーク: エミリー・ペドロンと植松永次(信楽)、清水剛(丹波)、松林佑典(宇治)、清水志郎(京都)、谷穹(信 楽)

 

コレクティブ・インテリジェンス

ヴィラ九条山京都大学

(フランス語記事日本語翻訳版)


はじめに

2016年7月のこと、ヴィラ九条山と京都大学学術研究支援室(KURA)が初顔合わせ。両者は、アーティストと研究者との接点を作り出し、彼らがどのようにお互いの違いと類似点を捉えているかを検討したいと言う共通の想いを分かち合うことなる。こうした取り組みにより、アーティストと研究者の相互理解を深めるとともに、さらにはコラボレーションを考えることもできるかも知れない。

最初の意見交換は2016年10月に開催された。その席で参加者たちはグローバリゼーション、普遍性や知識の伝承といった問題を取り上げた。

その後、同じアーティストと研究者からなるグループで、4ヶ月の間に3回の意見交換が行われている。

 

1部;別の眼差しを向ける、後ろに眼差しを向ける

2017131日(火)

アーティストと研究者の互いの営みを突き合わせることで何をもたらすことができるだろうか? 一見したところ相容れるところがなく、少なくとも懸け離れている分野の間で、経験の交流により新しい知識を生み出すことは考えられるだろうか? 自らの営みを分析することは、位置を変えることで、別の領域に何らかの情報をもたらし、《コレクティブ・インテリジェンス》を醸成することができるのだろうか?

広い意味では、出会いによりもたらされる豊かさは普遍主義や多文化主義のより広範な概念を誘発することになる。異文化を突き合わせるにより、どんな意味で知識に新たな要素がもたらされるのだろうか?

この意見交換は研究・教育の場である京都大学とアーティスト・イン・レジデンス施設であるヴィラ九条山という性質の異なるふたつの組織によって実現した。

参加者は、新しい知識、新しい営みの間の結びつきについて考え、彼らにとって、どんな形で多文化主義や普遍主義が関与してくるかを明らかにすることを促された。

新しい知識、新しい営み:絶えざる必要性か?

ラファエル・アンジャリとオリヴィエ・フィリポノーにとっては、卒業証書を手にした《前》と《後》が存在する。伝統的技術(写真、印刷など)の習得を基盤とした彼らの学習は、かなりしっかりした幅広い知識を与えてくれ、主としてこうした能力に基づいて10年前から仕事を進めることができた。

ティラニー・テイシャシーヴィチエンによれば、科学の領域においては、これと同じモデルに従うことはできない。日々、新しい知識や営みが考慮されることになる。それは科学は絶えざる注意を、したがって不断の習得を要求するからである。

そこで、研究者の仕事のプロセスが議論の中心となる。

「新しい知識を前にしていることに、どのように気づくのか? 自分自身が、あるいは別の誰かがそのことを指摘するのか?」
「別の誰かだ」

ある問題体系を前にして、ある問いかけを前にして、科学者はどのように回答をもたらすのか? どのような時間性に沿って、科学者は自らの知識を進展させるのか? 例えば伊勢武史の場合は、「なぜ森は感動を呼び起こすのか」という問いにどのように答えることができるだろうか? この答えを出すのは伊勢自身ではない。なぜなら、いかなる発見も科学コミュニティにより検証され、正しいと認められねばならないからである。つまり、客観性が求められる。伊勢の仕事はフィールドでデータを記録し、次に(それが喜びや恐れなど、ネガティブなものであれ、ポジティブなものであれ)呼び起こされた感動と実際に起きた事象との対応関係を研究室で明らかにすることにある。その上で、フィールドにまた戻り、データを補完するという手順が繰り返される。フィールドと研究室は絶えざる行き来によってつながれており、習得され、生み出された新しい知識は交じり合い、補完し合う。

ディラニー・テイシャシーヴィチエンによれば、研究プロセスにおける優れた時間管理は、データ収集のために抽出された調査対象者との間に確立された関係の質と結びついている。したがって、不断の注意は彼らとの相互作用にも向けられる。

アーティスト・科学者の営みの時間性

そこで、時間性の問題はアーティストや科学者のリサーチの最終目的の問題を導入する。つまり、見出すこと、生み出すことである。

ラファエル・アンジャリとオリヴィエ・フィリポノーは、身につけた技術を主として用いているにも関わらず、仕事にまつわる変化や外部からの影響も自由に受け入れている。例えば、2人の日本でのレジデンスは、日本の伝統的技法の習得を目的としている。つまり、新たなグラッフィック効果を手にいれるための新しい道具、新しい動き、新しい用途である。こうした要素は、アーティスト・ブックの制作という当初から定められた最終目的にとって必要不可欠なものとなっている。

これとは逆に、新しさが最終目的である場合、アーティストはどのように新しさを感じ取るのだろうか?

あなたの仕事をどのように語れますか? ある種の作品が新たな存在感を提案することになるのは何によってですか? あなたにとって、アートの中に創意が認められるのはどんな時ですか?

何か独創的なものを生み出したと言う意識を持つことについて質問すると、ラファエル・ラインとアンジェラ・デタニコはプロセスに立ち戻ることの方が、特に何らかの方法を持ち、したがって科学の場合と同じように目的を定義することを自らに課している事実に立ち戻ることの方が望ましいと考えている。

そこで、仕事に対する自らのアプローチと科学研究との比較は、彼らに新しい知識の創出における偶然性やアクシデントの問題を考えさせることになる。2人の説明では、もっとも面白い結果は間違いから生じることが、つまり2人の間の誤解や勘違いから生じることが多い。しかし、必要不可欠なのは結果を得ることよりもむしろ目に見えた結果が存在しないことあり、これは時には数年という非常に長い期間に及ぶこともある。しかしながら、2人の結論によれば、何かうまく行かないことがあったとしても、それは大したことではなく、何らかの意味を保っており、ネガティブなものではない。

ティラニー・テイシャシーヴィチエンの説明によれば、科学においては、方法は一貫性を備えたものでなければならない。つまり再現可能なものでなければならない。ある研究は復元できるもので、別のチームが同じ実験により同じ結果に至ることができなければならない。したがって、新しい知識が明白なものであることはその再現可能性と結びついている。再現可能性は、新しさとは別に、科学研究の目的そのものなのだろうか?

では、この最終目的の問題に関して、アートと科学を区別することはできるのだろうか? 参加者たちは、アートにおけるリサーチは正確な目的なしに進められるが、科学的なリサーチは出発点となる仮説を立て、それがリサーチに最終目的を与えることになるという考え方を検討する。精密科学と応用科学の違いも検討の対象となる。精密科学においては当初の仮説の検証が行われるが、応用科学においては前もって立てられた仮説は存在しない。ところが、ラファエル・ラインの指摘では、1950年代に発見されたが、潜在的な用途が不明であったレーザーの例はこうした考え方に反している。このことは、先ほど指摘された偶然性とアクシデントの概念に私たちを引き戻す。アートと科学を突き合わせてみると、疑問と偏ったビジョンを前にして、正確な回答を出したがるリスクを指摘することができる。

新しい知識:別の眼差しを向ける、後ろに眼差しを向ける

こうした分野間の潜在的な区別を探すことは、かつて言語学と記号学の研究に携わっていたアンジェラ・デタニコの発言を呼び起こす。彼女がアーティストになったのは、アートは新しい物事を作り出すというよりも、物事に対する新しいビジョンを作り出すと感じたからだと言う。つまり、狭間にいるのであり、単にモノの中にいるだけでなく、モノに向けられた眼差しの中にもいるのであり、アートはこうした新しい眼差しを発達させることに資するものなければならない。アートという領域は自らの好奇心を利用する口実と可能性を彼女に与えた。

別の眼差しを向ける? ティラニー・テイシャシーヴィチエンは医薬品に関する研究の例を取り上げる。こうした研究は単に新しい製品の探求にだけ基づくものではない。成分を組み合わせる効果も考慮される。まだ試されたことのない組合せの効果を研究することで、発見には無限の可能性があるが、かと言って何かまったく新しいものから出発するわけでもない。

20世紀のアートの歴史と現代のアーティストの営みとの対比が不意に指摘される。新しいモノではなく、新しい相互作用が作り出されるのだ。

ラファエル・アンジャリとオリヴィエ・フィリポノーにとって重要なのは、まさに視覚的な影響である。視覚的影響は民族誌的アート(イヌイットのデッサンや平安時代の日本の図柄)から受けることが多く、彼らのイラストと組合せやすい。そこで2人は、こうした形は、その単純さにより、普遍的なもので、コミュニケーションを可能にする共通言語として機能すると考えている。つまり、普遍主義は彼らのリサーチから生まれるのだ

ここで、小林広英はベトナムの例を取り上げ、ある村の住民たちが有している植物についての知識について語る。食べられる植物もあれば、治療に用いられる植物もある。こうしたバナキュラーな知識は代々伝えられてきたもので、今では研究のために産業にも取り込まれている。

次に小林は、建築家としての仕事との比較を行っている。研究者であることは、後ろを振り返り、忘れられたり、失われた知識を見出すことである。と言うのも、こうした知識はどれも信じられないほど豊かなものだからである。例えば、ある村における農業のために温室計画を立てた時、そのプロジェクトは伝統的な知識に基づくと同様に、研究者たちがもたらしたものにしたがって構築された。小林は地域の昔からの知識を吸収しながら、新しいものを作り出そうとしている。

この点はアートの歴史に改めて結びつくことになる。それは、アーティストたちが、新たな表象は、新しい技術によると同じくらい、組み合わせや比較対象から生まれることに気づいた時のことだ。そこで了解されることになったのは、創作とは必ずしも新しさを生み出すことではなく、別のものに向けられる眼差しだということだった。「新しいものは別のものでできている(New is made of other things)」

小林広英によれば、仕事の基盤は、変化したもの(新しいスタイル、新たな経済条件など)と昔からの外部の知識との間に均衡点を見出すことにある。小林は今回の意見交換を自国に関する楽観的な展望で締めくくっている。少子高齢化が進む日本は、特に外国人をはじめとするアーティストたちとの共生関係により、農村部を再活性化することができる。

意見交換において何が出てくるかを前もって知ることはできない。しかし、彼らは既存のものを改めて表明し直すことのできる精神を備えている

結論

この初めての意見交換は、進路と営みを突き合わせることで、様々な問いかけを湧き出させ、的確な具体例を提供してくれた。また、この意見交換により、いくつかの既成概念を覆すこともできた。突如、アーティストと科学者は、熟知していると確信していた自分の世界を問い直すことになった。

こうした意見交換は、結果の必要性をほぼ消し去ることで、プロセスの重要性とともに、「再現する」という動詞が浮かび上がる時間性の特殊性を前面に打ち出した。伝統的なモチーフを、昔ながらの知識を再現するとともに、科学的方法を再現すること。

そこから、次の問いに至ることになるかも知れない。アートが再現可能なものであるとすれば、それは科学と言えるのか?

 

 

第2部: 議論の小径で

2017年3月1日(水)

1月31日の意見交換に伴い、伊勢武史が仕事をしている森で改めて会ってみたいと言うアイデアが参加者から浮かび出てきた。別の場所で再会し、意見交換を継続するという選択は、最終的には伊勢のお気に入りの場所である大原に向けられた。散策し、思いを巡らせ、立ち止まり、この一味違った経験がどんな考えを生み出すかを見ることができるだろう。それに、野外なら子供たちを連れて行くこともできる。

内輪の世界から抜け出すという考えに支えられたコレクティブ・インテリジェンスは、ひとつの場所から抜け出すことでも醸成されるのだろうか? インターネットや情報交換を助けるテクノロジーが隆盛を極める時代に、屋外空間を活かした別の場所での出会いは何を生み出すのだろうか?

待つ、遠ざかる

バスを待ちながら、背後には川が流れる状況で、会議室とはまったく対照的なこの屋外空間が直ちに導き出したのは日本における生活の問題。しかし京都人の《ライフスタイル》からすぐにも《ワークスタイル》へと話題が移る。つまり、現代の職業環境において、他人や電子メールの受信や提出しなければならないレポートに時間が牛耳られているかのような状況において、《自分の時間》を持つことなく、どのようにすれば仕事をすることができるのか。

チームを組んで仕事をしている小林広英にとっては、ラファエル・アンジャリとオリヴィエ・フィリポノーがペアで行っているアーティストとしての仕事は関心の的である。カリカチュア的なところを意識して小林が笑いながら打ち明けた想像では、忙しいと自称するアーティストが、仕事場で制作途中のタブローについて考えを巡らせ、それを眺めつつ煙草を燻らせ、時々、いくつかの線を描き加える。こうした紋切り型のイメージに対し、2人組のイラストレーターはインスピレーションを得るためには仕事場から出ることが必要だと答えている。研究者が夢見る自分の時間はしたがってアーティストにとっては《別のこと》のための時間である。ラファエルとオリヴィエにとっては、考えをどう言い表すかが特に難しい点で、これは第1回目の意見交換でアンジェラ・デタニコが言及した勘違いの概念に通ずるものがある。

私たちの前を行き交う車の流れは、プロとプロとのこうしたやり取りをまったく妨げるものではない。あまりに形式張った打合せ会議であれば、おそらく、感じたままに表現することが妨げられるかも知れないが、この飾り気のないひと時は話を弾ませることができる。ようやくバスがやって来て、私たちは乗車し、山あいの村里に向かって移動し始める。

大原に到着すると、歩きながら、私たちを取り巻くものと私たちが言葉にできるかも知れないことの間で心が行ったり来たりする。沈思黙考・熟慮の時間。周りに聞こえる音や見えるものが、空間の所々や静寂さの中に入り込んでくるが、会議室であったなら、こうした要素は邪魔だと見なされるに違いない。ここでは、こうした要素は、交話的機能を超えて、日常から抜け出すことで生まれる考えを、驚きから生まれる着想を促すことができる。例えば、遠くの学校から聞こえ、誰もが耳を傾ける子供たちの歌声や、オリヴィエが写真に撮った建物のファサードに描かれたデッサンなどだ。

坂道のために少し息づかいも荒くなりながら、アンジェラ・デタニコはかつての言語学者としての生活の《素晴らしき理論 》に言及し、コレクティブ・インテリジェンスと関連づけている。

私が考えていたのはポリフォニー理論のこと。この理論では何もないところから人が話すことはないとされている。ポリフォニーがあり、それは自分の声の中には常にいくつかの声があるからだ。自分のなかには同等のことを話した他の人々の声がある。例えば、何か新しく、独創的なことを話したと考えることがあるが、こうした場合でも、自分の背後にある何かに支えられている。

そして、共有された知識はまさに寛大さと謙虚さを教えてくれる。自分は流れの一部となり、それは少し、そこの川の中を流れる水みたいなものだ。そしてたとえ《私》と言ったとしても、それは他者たちの自己に希釈された私でしかない。人は常に他者によって存在している。

そこで、会話は別の話題へと移行し、名前が書き込まれた木の板の前で途絶える。集団的森林再生のインテリジェンス?

考えが思い浮かぶままに

音無の滝に到着すると徐々に話し声がしなくなる。何人かは石の上に腰掛け、別の人たちは立ったままだ。何か映画の演出のような感じがし、静けさは水音とアーティストの子供たちのはしゃぎ声で打ち破られる。この集まりの特別な時間性は、移動と夢想の時間が意見交換の時間と入り交じることで、1日のリズムの問題を取り上げることへと至る。その例として取り上げられたのは、大原で暮らし、有機農業の研究の一環として野菜を栽培していたある男子学生のケース。この学生を夢中にしたのは、初めて知った新しいリズムであり、コンビニでのアルバイトと交通機関での移動により途切れ途切れにされることのなくなった1日の流れだった。 こうした1日の過ごし方は、様々な出来事を経験し、したがって仕事に対する別の見方を可能にするコレクティブ・インテリジェンスに私たちを結びつける。知識を蓄積することは必ずしも新しい知識を生み出すことにはならない。 しかし、日々を生きるために別のリズムを求めることは、様々な要素を異なった形でつなぎ合わせ、何か新しいものを作り出そうとすることである。そのためには、しばしば身を横にずらせて、別の角度からものを見なければならない。

そこで、ラファエル・アンジャリは《何もかもが忙しない》パリと、レジデンス生活のリズムが彼女にとっては心地よい違いである日本とを比較する。この点に関してはグループの全員に強いコンセンサスが認められる。時間が経つのがあまりに速すぎると、私たちは自分の生活の一部を無駄にしているような印象を受け、自分に帰属するものを感じ取れなくなる。

この散策の目的は、自分が持っているものを自覚する時間を与えることにある。

ここで普遍性の問題が提起される。と言うのは、この種の体験は言語や科学に結びついたものではなく、人々が自分の心を予め敷かれたレールの外に置いて、行動し、思考する方法に左右されるからである。

スイッチを切る

研究者にとってであれ、アーティストにとってであれ、時間管理の問題が中心にある。小林広英にとっては、海外でのリサーチの時など大学外での仕事により自分固有の時間を、お仕着せではない時間を見出すことができる。「これは私の精神のバランスにとって必要だ」

息つく暇もないかのように、さらには息つく必要もないかのように、絶えず作り続ける人たちには驚かされる。一見したとこと無意味な時間や合間が、仕事やプロセスについて考え、心をさまよわせるためには必要だという点では誰もの意見が一致している。しかし、罪悪感を持ったり、外部からの圧力を感じることなく、どうすれば何もしないでいられるのだろうか?

アンジェラ・デタニコの考えるところでは、毎日制作することは簡単だが、それには特に重要性も意味もないのに、作り出したものに自己満足してしまうリスクが伴う。こうした無駄な過剰生産という考えは私たちの過剰活動に由来するもので、したがって、こうしたリズムから抜け出す必要がある。

「実際には、子供たちのせいでスイッチを切らざるを得ない。子供たちを外に連れて行くと、時に、子供たちと一緒にいる間に、こうした考えが浮かび、それは30秒足らずのことかも知れないけれど、その1日に意味を与えてくれる」

この日、子供たちが一緒だったことは、彼女の言葉により、まったく別の意味を帯びることになった。つまり、スイッチを切ることは子供たちがいることを通して、子供たちがアーティスト・カップルにおいて占める場所を通して行われることになるのだ。 子供たちは、この日、必要なスイッチ・オフを体現していた。

突然、3人の女性が滝を見にやってくる。彼女たちを観察し、会話の流れを見失うこともできたかも知れず、彼女たちは、閉ざされた、形式的な仕事の空間においてのように厳密な形ではないまでも、会話に加わることもできたかも知れない。しかしここでは、空間や音や通りがかりの人たちを思考のプロセスに取り込むことができる。スイッチ・オフは外的要因を通しても行われるのだ。

思いがけないものを待つ

しかし、受け身で過ごされることが多すぎるこうした時間性においては、考えはどのようにして立ち現れるのだろうか? アーティストにとっては新しい考えがまずは素早く立ち現れるが、特に面白いものとも思えず、他の考えの中にまぎれ込み、その後、再び現れることがある。こうした考えは、テーマとして避けられないものになるために、時間を必要としたのだ。

そこで、小林広英はこうした考えに必要な時間について語る。「どんなプロジェクトでも、私は熟慮に熟慮を重ね、それは難しいことだが、その上で明確な考えが訪れる」。そこで小林の考えでは、この種の集まりは大きな助けとなるものであり、それは他者の観点を糧とすることができるからである。特に、この場合、待つことは何もない。それは意味のあることなのかどうかは分からず、何が生じるのかも分からない。そして、こうした形で、独創的な考えが突然現れることがある。

「ここに皆と一緒にいて、考えるのは素晴らしい。ここでは、目的はなく、目的が探し求められている。大切なのは、散策したことに伴うプロセスだ」

したがって、問題は待つことである。あるいは、むしろ、何も待たないことである。この点において、科学は新しい知識や新しい形式の創出に接近する。突然、思いがけないことが生じるのだ。アーティストと科学者を結びつけているのは、新しさの感覚によって、あるいは前代未聞のものをもたらす予期せぬ方向性によって時に断ち切られることのある日常的な営みである。

ところで、これを認めることは、自分では制御できない要素があることを認めることになる。「猛烈に働くだけでは足りない。諦めることも必要だ」と考えるアンジェラは、ちょうど、電車の形をした石を持ってきた息子のジルに話を遮られる。「家では石について勉強している」と笑いながらアンジェラが言う。しかし、寒さと湿気がひどく、滝を離れることにする。

続ける、こだわる

小径を歩きながら、フリーで仕事をしている場合の時間管理について考えてみる。週末に時間の余裕を与えてくれる《普通の》リズムに努めて従うことで、少しの自由を守らなければならない。

ギリシャ人は《余計なものはない(Μηδὲν ἄγαν, Mêdèn agan) と言う。つまり、たとえどんなに高いあるいは低い地位にあろうとも、中庸を見出すように努めなければならない。目的は中庸にある。

2人で仕事をすることには、第1回目の意見交換でラファエル・ラインが語った通り、規則や方法が課せられる。そこから引き出される結論は、実際には100%の自由は難しく、それは本当の自由ではないこと。

ラファエルは、大きな位置を占めることの多い最終目的にこだわりを持っている。レジデンスは制作を基本とするものではないことが彼にとっては重要であり、リサーチのプロセスだけに集中できなければならない。「デッドラインはお仕舞いにしなければならない」。彼はフランスにおける有給休暇の日数や自由な時間の捉え方さえ引き合いに出す。

レジデント仲間に「今日は大原に行くんだ」と言った時、彼らは「そんな時間はあるの? ここに残って仕事を仕上げなければ」と返してきた。でも、今日は良い機会だと思っている。

里の駅の食堂では、体を温め、生活環境やプロジェクトについての会話を盛り上げるため、とりわけぜんざいが選ばれる。そして、帰路につくことになる。伊勢武史は、ここ大原で暮らしたいと話す。彼はここによくやって来て、ものを考えたり、英気を養うために、例えば寺院で長い時間を過ごすことがある。木々で覆われた遠くの山々を眺め、伊勢は一緒に仕事をすることになったアーティストたちの感動について語ってくれる。彼らを森の中に迎え入れることは伊勢にとってとても印象深いことである。なぜなら、彼らは強い感動を受けているからだ。それは実に特別なひと時を形成する。

私たち科学者は森に対するひとつの見方を持っているが、アーティストたちは別の見方を持っている。この違いは私たちを互いに豊かにしてくれ、この点は私の仕事にとってとても大切なことだ。

違いが問題となる時、指摘されることが多いのは異なった視点やアプローチの相互補完性である。しかし、この重要な概念とは別に、この1日において、意見交換を織り成したのは共通の関心事項である。つまり、時間をかけること、待つこと、一息つくことである。

時間はまさに静かに移ろい、17時となる。寂光院の庭の湿った空気のなかで、鐘を撞く音が鳴り響く。寺は閉門となる。この1日と同じように。バス停に戻る道すがら、雨が激しさを増し、足並みが早くなり、頭はうなだれる。寒さが感じられ、街中へと私たちを連れ戻すバスの温もりの中で、会話は途切れる。西の空は赤く染まっている。

 

研究者:

小林広英
地球環境学堂准教授
建築家

建築家地域に根ざす人間環境構築のための実践的研究

伊勢武史
フィールド科学研究教育センター 准教授
芦生研究林長
陸域生態系・炭素循環のシミュレーション、炭素サイクル

ティラニー・テイシャシーヴィチエン
医学部助教授
国際保健学、社会疫学

 

アーティスト:

ラファエル・ライン&アンジェラ・デタニコ
造形芸術家。アート、ポエジーとグラフィックデザインを取り交ぜて、言葉を造形的、音響的、視覚的な形で表現する取り組みを行なっている。

オリヴィエ・フィリポノー&ラファエル・アンジャリ
グラッフィクデザイナー。木版画技術を巡るコラボレーションを行い、児童・青少年向けの絵本を何冊か発表している。

 

リポーター:

アルノー・ロドリゲスはフリーランスのコミュニケーターで、編集デザインの専門家。化学修士号(ポワティエ大学)とコミュニケーション学のマスター1(パリ・ソルボンヌ大学付属情報通信科学学院《CELSA》)を取得。

主催者:

京都大学学術研究支援室(仲野安紗、藤枝絢子、鈴木環、大澤由実)

KURAは京都大学における研究活動の強化・推進を行い、大学関係者、産業と社会の間に新たなネットワークを構築することに取り組んでいる。

ヴィラ九条山(クリスチャン・メルリオ、マリオン・ランボー)

1992年に設立されたヴィラ九条山はアンスティチュ・フランセ日本の5つの支部のひとつ。フランスが国外で展開する最も名高いレジデンス・プログラムのひとつであり、アジアにおいてフランスが保有する唯一のアーティスト・イン・レジデンス施設となっている。